田舎暮らしを始めてずいぶん経ちますが、今年は初めて田植えをしました。
それも手植え!
ほとんどの農家さんが、田植機による機械植えですので、なかなか泥の中にどっぷり浸かって手で植えることなど経験出来ません。
近所の友達が田畑を始め、田圃は手に入れたけどまだ田植機はない。
そこでみんなで手植えをするぞーと言うのでお手伝いに行ってきました。
清々しい青空の下、澄んだ空気と透き通った水。
自分の食べるお米を自分で植えるという気持ちの良い一日、、、と言いたいところですが、これは相当キツかったです。。。
キツすぎて夕方には思考力も無くなってしまうほど。
何が辛いかと言うと、やっぱり体力ですかね。
ひざを90度に曲げて、腰も同じくぐっと曲げ、前屈みで床にさわる様な体勢。
言い換えると、椅子のないところで椅子に座った形になり、目の前の床を触る体勢。
その上、なかなか抜けない泥の中を30m止まることなく、ゆっくりゆっくり歩くのを、夕方までやり続ける感じ。
農家のみなさんには笑われてしまいそうですが、ちょっと筋肉痛です。
田舎暮らしっぽい話も、たまには良いですね。
地元の農家さんと言えば、自宅ドームハウスの建設地を購入する際に、素晴らしい出会いがありました。
土地を探してあちこちの森を見て回っていた頃の話です。
子育て真っ最中の時期だった為、里山の集落から少しだけ森に入った所で、子供の足でも歩いて数分で集落に出られる土地を探していました。
ここ白州は、南アルプス天然水を取水している森ですので水がとてもきれいな所です。
しかしそれでも、古い別荘地には合併浄化槽を設置することなく、生活雑排水を垂れ流している家も残っています。
トイレがくみ取り式の場合、台所やお風呂の排水はそのまま地面に浸透させる方式になっている家が多くあります。
良さそうな敷地があると、その上流域の森を歩いて回り、そんな古い別荘がないかを見て回りました。
すると、ある土地の上の森だけが、素晴らしく美しい森になっているのを発見。
車道は途中で終わり、幅2mほどの獣道のような林道が通っているだけで、家は一軒もありません。
小川が流れ、赤松やコナラ、クヌギ、ケヤキ、山桜。
雑木林がとてもきれいで光っているようでした。
頭上にはキツツキやリスが見え隠れし、足下には鹿の足跡がいくつもあります。
ここの森に降った雨が地面に浸透し、少し下に位置する、建設地がある集落の井戸で汲み上げられるのであれば、良い水に決まっています。
そんな裏の森の美しさに惚れて、購入を決意しました。
ドームハウスの建設も後半になり、防水工事、断熱工事も終わり、建設中の家に住みながら家づくりをし始めた頃のことです。
朝起きて外に出ると驚くことが。
ぺらぺらのベニアで作った正面の仮ドアを開けると、足下にキュウリとナスが数本ずつ置かれているではないですか。
え?
野菜、、、
間違えて届けられたのか? と不思議に思いましたが、それが何回も。
誰に聞いても分かりません。
その内にキュウリが冷蔵庫に余ってしまい、ご近所さんへお裾分けするほどに。
一体誰なんだろう?
何日かしてやっと分かったことは、基礎工事の頃から時々工事を覗きに来ていた、下の集落の農家さん!
早朝、畑で採れた野菜を、わざわざ森の中の我が家へ届けてくれていたんです。
採れすぎて余るからやるわぁ~、と。
その内にまた発見したことは、上の森が美しく保たれているのは、そのおじいちゃんのお陰だと言うことも分かりました。
無農薬で田畑をやっているおじいちゃんは、森から落ち葉を持って帰っていたのです。
トラックに何杯も何杯も、山積みの落ち葉を田畑に持ち帰り、土に鋤込むのです。
化学肥料は使わず、森の中から落ち葉を集めて肥料にするのだそうです。
毎年秋になると森に入り、落ち葉を集め、落ち葉以外の枯れ枝は数メートル毎に積み上げ、見た目に美しく、動物も走り回れて、風が通る広葉樹の森を作ってくれていたのです。
彼にはその土地の所有者が誰という感覚はあまりなく、みんなで使う森だといつも口にしていました。
森から出た落ち葉が田畑を肥やし、森に降った雨が私たちののどを潤し、川をつくり、肥沃な水として海に届き、海の魚までも豊かにする。
おじいちゃんの口癖は、
「 大丈夫、大丈夫、お客さんだぁ~。」
そして、
「 みんなで使う森だぁ~。」
つまり、森が今は誰か個人の所有物であるとしても、昔々からずっとそこに生き続けており、現代人など長い森の歴史の中では、ちょっと立ち寄ったお客さんでしかなく、単に使わせてもらっているだけなんだよ、という意味なんじゃないかなぁと、深く納得したのを覚えています。
この森が美しいのは、
そこに、見えない農家のおじいちゃんの「手」が隠れていたんですね。